Friday, January 07, 2011

たった16種類の本の読み方

 本を読むのは、小さいころからずっと好きです。でも、本を読むというのは、いったいどういう行為なんでしょう。ふりかえってみると、一冊の本を読むという行為も、けっこういろんな行為の寄せ集めだということに、あらためて思いいたりました。

1■本と出会うとき出会うところ

 本を読むためには、どの本を読むかを決めなくちゃいけないわけですけれども、これは苦じゃありません。読む前から、「なにか読もうか」と思うと、どこかでスイッチが切り替わります。わくわく感が立ち昇ります。心がざわめきます。たのしい時間です。

 まずは、表紙を眺め、背表紙を読みます。
 本との出会い。それは本と「目が合う」ところから始まります。この時点ではまだ本とは指一本触れあってさえいません。私が本を見つけただけではなく、本のほうでも私を見つけてくれたかのように思います。

 読もうと思うきっかけは、あちこちにあります。机の上でも、病院の待合室でも、図書館でも、書店でも、本が並んでいるところに立ち寄ると、なにげなく見渡してしまいます。鞄を開けると、投げ込んでおいた本が目につきます。インターネットを眺めていても、本の紹介があると目が停まっていることに気付くことが多いです。

2■手に取るまで

 背表紙を眺めているだけでも、本は「読んで読んで」と誘ってくるような気がします。それは、本や雑誌の向こうには、その判型の物理的な大きさを遥かに超える世界が広がっているからです。本を読んでいる時間は、その中に流れる時間が現実の時間の制約を解き放ちます。時間が二重になります。あるいは、時間を超えて考え、感じ、生きることができます。古代の著者と直接向かいあうこともできれば、想像の未来の人物の暮らしを体験することもできます。その意味で、本はタイムマシンです。各界の著名人と対話することもできれば、国も言葉も知らない無名の人に真実を教えられることもあります。その意味で、スティーヴン・キングが「小説作法(2000, On Writing: A Memoir of the Craft)」で書いていたように、テレパシーだとも言えます。

 どの本を読むか決めたら、本に手をかけます。
 背表紙を確認して、指を触れます。それはたわいない挨拶のようなものかもしれません。心ときめくはじめての接触かもしれません。旧知の相手とのなつかしい再会かもしれません。ずっと以前から読みたい、出会いたいと憧れていた相手との劇的な出会いかもしれません。ひょっとしたら、読もうと決めていながら他の相手に気を取られ、背を向け目を伏せていた大切な相手との再会かもしれません。

3■背表紙読み

 背表紙を読むとは、つまり本のタイトルと著者名を読むということです。

 タイトルだけでも、いろんなことがわかります。テーマは何か。そのテーマについて何を語ろうとしているか。どんな態度で扱おうとしているのか。

 著者名がわかれば、その著者の既存の著書やそれらについての評判を思い出します。読んだことのある著者なら、読んでいるときの気分やその著者流の展開が想像できます。読んだことがなくても知っている名前の著者なら、期待を持つことができます。知らない著者なら好奇心が刺激されます。

4■表紙読み

 背表紙を読み、本を手に取ると、表紙が目に入ります。背表紙と大差のない情報しかないような素っ気ない表紙もあれば、写真やイラストをあしらったり、独特の書体でタイトルや著者名を大きく描いた表紙もあります。判型や本を作る紙の素材の手触りや見かけといった風合いや紙の色に凝った本もあります。

 なかでもやはり表紙の写真やイラストは本のイメージを大きく左右します。それは本を活かしもし、殺しもします。少し前には古典文学の表紙を人気漫画家に任せることでよく売れるようになったというニュースもありました。この例に限らず、表紙がいいかどうかで売り上げが大きく変わることも多いことでしょう。

5■帯読み

 新刊書なら、帯もあります。腰巻きともいう帯は、本の表紙の下部を隠しつつ、編集者や著名人による推薦の言葉が書かれていたり、内容の一部をことさらに大書した抜粋があしらわれていたり、著者の顔写真が掲載されていたりして、それ自体が雑誌のように編集されています。

 中には本の縦の長さの半分以上を占めるような大きな帯もあって、そうなるとほとんどもうひとつの表紙という感じになります。派手な帯を取って表紙を見ると、化粧を落としてさっぱりした本の素顔を見たような気分になったりします。

6■裏表紙読み

 本のページを開く前に、本を裏返して眺めることも多いです。裏表紙には著者紹介があったり、あらすじの紹介があったり、あるいは何もなかったりします。書店では、ここにある紹介を読むだけで、衝動買いしたくなることもときどきあります。その本を手に取ったまま、さらに他の本を求めてさまようときの気持ちは、実り豊かな森のなかでおいしそうな果物を見つけて一房もぎとったような嬉しい気分です。

7■解説読み

 解説が付いている本もあります。とくに小説の文庫には、それがよくあります。著者の知り合いだったり、編集者が依頼したその本のテーマに関する専門家だったり、ときには芸能人だったりもしますが、なにかしらその本についての関心を持つ(はずの)人がその本について短い文章を寄せるものです。これは本の著作そのものの価値とは言えないのかもしれませんが、その本全体の価値には大いに寄与していると言えそうです。

 解説がおもしろいと、本文も読んでみたくなります。解説がつまらないと、そこで読むつもりだった本を読まずに戻してしまうことさえあります。

8■あとがき読み

 著者によるあとがきが載っている本もあります。本文を書き終えて、本が完成する前に書かれるものもあれば、本が一度出版された後で、文庫化されたり、別の出版社から再刊されたりした場合に回想録のように書かれるものもあります。

 あとがきでは、著者自身による文章でありながら、本文の雰囲気とはかなり違う文章に出会うこともあるのが楽しいところです。リラックスしたり、客観的になったりしやすいのでしょうか。あとがきでは著者の気さくだったり恥ずかしがり屋だったりする意外な側面がかいまみえるような気になることも多いです。

 あとがきは、グリコのおまけのようなものでしょうか。食玩の玩具のような極端な場合まであるかもしれません。

9■序文読み

 序文には、いつも少しの気負いがあるような気がします。これから本文を読むはずの人のために、「さあ読んでください」という文章だからでしょう。自画自賛とまではいかなくても、自己宣伝の一種とも言える文章ですから、どうしても気恥ずかしさがあったりもするのかもしれません。

 本文の概要を説明したり、どんな人を念頭に書いたかとか、急いでいる人向けだとかの読者のタイプ別に読み方をかんたんに示唆するものもあったり、本を作るのにあたって世話になった人たちへの感謝が書かれていたりして、本を作るのも大変なんだなと思わせるものも多いです。

 序文とは、舞台劇の冒頭の口上のようなものと言っていいでしょう。幕が上がる前に舞台の袖でスポットライトを浴びながら、観衆に向かって来場への感謝と芝居への期待をあおるのです。

10■パラ見・眺め読み

 本の場合は舞台劇や映画とは違って、ページを順に同じスピードで読んでいくことは強制されません。いちおうは最初のページの先頭から順番に読み進めて最後まで読めばわかるように書かれているはずです。しかし、かならずしもそれが一番理解しやすい読み方だとも、一番役に立つ読み方だとも、一番楽しめる読み方だとも限りません。

 私は、物語なら最初から一文字一文字追いかけるように内容を読むことが多いですが、とくにドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(Братья Карамазовы 1880年) だとか、ミルトンの『失楽園』(Paradise Lost ユリウス暦1667年)のような、長大な本の場合には、そうはしないことが多いです。最初から読む前に、まず全体のページを読まずに眺めるようにめくってみるのです。読めないくらいの速さでめくっているだけでも、ときどきは気になる言葉が目につきます。語調や頻出する単語がわかってきます。全体のなかで、とくに長く割かれている部分がどのあたりにあるのかもわかります。

 クライマックスの部分だけ、つい読みふけってしまうこともあります。そうしたとしても最初から読んで大きな文脈の中に埋め込まれたときの印象と、一部だけを先行して読んだときの印象は異なるので、そう困ることはありません。むしろ、パラ見・眺め読みは、テレビの番組宣伝や映画の予告編のように働きます。読みたい気持ちをそそられて、あわてて読むのを止めたりすることもあります。あとで最初から読むときの楽しみにおいておこうと思ったりするのです。

11■もくじ読み

 小さい頃は、もくじは読み飛ばしていました。どうせ本文を読めば読むことになる章のタイトルや見出しだけを列挙したもくじを読む必要はないと思っていたのです。もくじと索引の両方がある本を不思議に思っていました。索引だけあれば十分ではないかと思っていたのです。もくじだけがあって索引のない本について、(欠陥本とまでは言わなくても)どうせなら索引だけでいいのにと思っていた気がします。

 雑誌のもくじは写真やイラストがふんだんに散りばめられていることが多く、レイアウトの工夫がふつうの本以上に施されているので眺めていてもおもしろいです。自分が小さかったころも雑誌の目次は読み飛ばさずに見ていたような気がします。もっとも、それは雑誌の場合、全部を通読するのではないからとも言えます。おもしろそうなところだけを選んで読むからで、必要に駆られて目次を見ていただけだったというわけです。

 しかし、いつの頃からか、もくじを読むことを楽しむようになりました。もくじは本の地図であり、本の縮図です。もくじは本の設計図でもあります。本の構造と流れがひとめでわかります。そう考えれば、ロバート・ルイス・スチーブンソンの『宝島』(1883年)に出てくる宝島の地図を見るように、本のもくじを読むことが楽しくなります。文学作品のように表現や登場人物どうしのやりとりを味わうものはもくじを見ても短い見出しが並ぶだけで、想像の余地が大きすぎて具体的に想像するのもむずかしいですが、たとえばビジネス書や解説書などは、もくじだけでも間に合うものがけっこうあります。

 索引は紙の本では必要ですが、デジタル化されて検索できれば不要でしょう。しかしもくじのほうはそうはいきません。そもそも本を作るときに著者と編集者が未稿の著書について検討する場合には、もくじによる構成案と部分的なサンプルくらいしか材料がないのですから、本は出版されなくても、もくじだけは完成された本も、おそらく大量にあるのでしょう。

12■拾い読み・戻り読み

 拾い読みは、おもしろいです。おもしろそうなところだけをつまみ食いするわけですから、おもしろくないわけがありません。隅から隅までまったくおもしろくない本というのはなかなかないものです。

 もくじ読みをしている最中におもしろそうな箇所を見つけると、そのページを開いて読んでみることも多いです。現場検証です。そうして読んでみると、意外につまらない場合もないわけではありません。しかし、まずたいていはおもしろいことが多いです。そういう箇所の多い本はうれしいです。腰を落ち着けて読みたくなります。書店なら買いたくなるし、図書館なら借りたくなるし、書店以外の店に置いてある本なら店を出る前に読んでしまいたくなります。

 そうやって惚れ込んだ本は抱きしめたくなるものです。書店なら、レジに並ぶ間にも読みふけってしまったりします。至福のときです。

13■走り読み・流し読み

 本をふつう以上に速く読むことがあります。速く読むのはとにかくはやく全体に目を通したいからですが、私にとって速読の目的は二種類あります。ひとつは、検索できれば必要のない走り読みです。もうひとつは、読書体験を大急ぎで済ませるための流し読みです。

 私がいう走り読みというのは、もれなく、くまなく、すばやく読むことです。意味や文脈をたどることよりも、すばやく正確に目的の情報を見つけるために読むことです。たとえば引用句の出典を探すような場合がそうです。大量の検索結果から目的の情報を入手する場合のような読み方です。ページ数の多い本だと苦痛です。途中で精根尽き果てて、別の本を読むことに逃げてしまったりすることもあります。

 私がいう流し読みというのは、すばやく、なんとなく、気配をつかんで読むことです。たとえば、参考書等をいくつかの類似書籍のなかからどれかひとつを選ぶときにその本の印象を判定したい場合がそうです。書評家が大急ぎで書評する場合にも、ひょっとしたら流し読みで済ましている人がいるかもしれませんね。既に読み終えた本をもういちど読みなおす時間はないものの、読んでいるときの気分をもういちど味わいたい場合にもそうすることがあります。既に読んだことがあって、強く印象に残っている本なら、流し読みでも楽しめます。浅い夢を見ているような気分です。いつのまにか、深い眠りに落ちて鮮やかな夢をみるような境地についはまってしまうこともあります。

14■通読

 通読は、ふつうにはじめからおしまいまで読むことです。スピードについても、そんなに意識して速く読もうとがんばることはありません。リラックスして読書をたのしむ方法です。もっとも、おもしろい本を読んでいると、ついついページをめくるスピードがあがってしまうこともあります。そんなおもしろい本をたくさん書ける作家は尊敬してしまいます。

15■再読

 再読は、私にとって特別なことです。再読した本はあまり多くありません。

 私の好きな作家はショートショート作家の星新一とSF作家のアイザック・アシモフです。このふたりにはいずれも膨大な著作があるのですが、それでも手に入るかぎり、ほとんど読んだと思います。いまでも大好きな作家ですが、それでもひとつの著作を数回以上は読んでいないと思います。

 二度三度ではなく何度となく読み返した本となると、さらにわずかです。私にとってのそんな特別な本はアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』(Le Petit Prince 1943年)、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(Alice's Adventures in Wonderland 1865年)など、数えるほどしかありません。

 くりかえし再読する本には、独特の雰囲気があります。そういう意味でも「星の王子さま」と「不思議の国のアリス」は私の心のなかで特別な位置を占めています。

16■読了

 おもしろい本を読み終えると、「ああおもしろかった」という達成感と「もう続きはないんだ」という少しの寂しさがあります。必要に迫られて読むような本だと、寂しさはあまり感じないかもしれません。おもしろかった本に続編がある場合は、よろこんで読むことが多いですが、続編といえども正編とは独立した著作物です。そうである以上、連続性は限られたものです。やっぱりどこかに寂しさは残るように思います。

 読みながら、気に入った点や気になった点、本の内容から少し離れたことで思いついたことなどは、ノートにメモしたり、人に話したりすることもあります。読み終えた本について、タイトルと読み終えた日付とその本のページ数くらいは記録していますが、できればその本についての意見交換や感想を披露しあうことができるといいですね。

 本を読むことは楽しく、楽しい思いを味わうと、また同じように楽しい思いをしたくなります。本が読めなくなると、とても苦しく悲しい思いに襲われて、なんでもいいから文字を読みたいような気持ちになります。私は、街にあふれる看板や広告も、テレビや映画に出てくる風景のなかの文字も、たいてい目につき次第読んでしまいますが、それでも本を読むこととそうした文字を読むこととは違います。たぶん、私は本の虫。読書中毒といってもいいんじゃないかと思いますが、そんな自分を楽しんでいます。

 読書が好きです。

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